北コース

太鼓門から二の丸御殿跡を通り、主に武家地を歩くコースです。
馬場や馬出し、江戸時代の武士の家の様子を今に残す「高橋家住宅」などのほか、松本市初代市長・小里頼永の家の跡や、陸軍大将・福島安正の生家跡などもあります。

ルートマップ

北コースのポイント

  • 太鼓門と太鼓楼

    太鼓門と太鼓楼

    本丸や二の丸につながる堂々とした立派な門

    太鼓門(たいこもん)はお城の本丸や二の丸へ入るための門で、大事な門でした。ですから堂々とした姿でとても立派に造られています。
    太鼓門の横に櫓が建てられていて、そこに太鼓と鐘が置かれていました。この太鼓と鐘は城下の人々に時刻を知らせたり、武士がお城へ集まってくるときの合図を打ったりするときに使われました。そこで、この門は太鼓門と呼ばれました。
    ところが、武士の時代が終わると、この門はいらないことになり、明治4年に壊されてしまいました。
    お城にとって大事な門なので、なんとかこれを元のように建てたいと多くの市民が願っていました。その願いがようやく実って、平成11年に復元されました。
    門の東側に、松本城で一番大きな石が置かれています。この石は松本城天守を造った石川康長(やすなが)公の役の名をとって『玄蕃石(げんばいし)』と呼ばれています。

  • 徒歩約1分
  • 二の丸御殿跡

    二の丸御殿跡

    明治維新まで藩の政治の中心地

    松本城には、御殿が始めのころは3つありました。本丸御殿と二の丸御殿と古山地(こさんじ)御殿です。御殿は殿様や家族が生活をしたり、お客さんといきあったり、藩の政治をしたりする場所につかわれていました。
    戸田氏が松本へ入封した翌年の閏正月、本丸御殿は火事になり、みんな燃えてしまいました。そこで、二の丸御殿に生活や政治の場所を移しました。その後、ここが明治維新まで松本藩の政治の中心の場所になりました。
    明治時代になって、松本藩がなくなって筑摩(ちくま)県がおかれると、御殿は県庁になりました。ところが、明治9年に建物が燃えてしまいました。そのあとに新しく裁判所の建物が造られました。
    裁判所が現在の場所に移ることになって、古い建物は松本市島立へ移り日本司法博物館として保存されたので、跡地を発掘調査することになりました。昔の部屋の跡や台所の跡や井戸や、人々が使っていた道具や食べていた貝や魚の骨などがたくさん出てきました。
    現在、御殿の建物のあった場所に案内板をおいて、建物の様子が分かるようにしてあります。

  • 徒歩約2分
  • 北不明門跡と松本神社

    北不明門跡と松本神社

    普段は開かない門と、戸田氏の祖先をまつる神社

    松本神社の北西には、城の門がありました。北側にあって普段は門を閉めてあったので、「不明(あかず)」の門と呼ばれていました。同じように西側にあった門も西不明門(にしあかずのもん)と呼ばれて、通行はしない門でした。
    門の前には「馬出し(うまだし)」と呼ばれる場所があってお城を守る仕組みが造られていました。門は壊されて今はありませんので、井戸のところに場所を示す碑が建っています。
    戸田の殿様が松本へ来たとき、ここに神社を建てました。最初は「陽谷霊社(ようこくれいしゃ)」と言いました。だんだんに戸田氏の祖先にあたる人たちを合わせてお祀りし、5柱の神様を祀ったので、「五社(ごしゃ)」と呼ばれるようになりました。
    正面右の建物が五社です。その左にこれも松本城に関係の深い「若宮八幡(わかみやはちまん)」を移し、一緒にまつるようになったので、昭和28年から「松本神社(まつもとじんじゃ)」と名前をかえました。
    氏子さんたちが、大きなケヤキの木が枯れないようにと世話をして守っています。境内の南西の隅に井戸が新しく掘られて、観光客の皆さんにも松本のおいしい水を飲んでもらっています。

  • 徒歩約4分
  • 北馬場と柳の井戸

    北馬場と柳の井戸

    城の周りにあった3つの馬場の一つと、湧き出た井戸

    松本神社の北側は、お堀がありました。その堀の北側は、東西の一直線の道で、馬場に使われていました。馬場は馬の稽古をするところです。城のまわりに、柳の馬場(市役所の東の通り)、葵(あおい)の馬場(松本神社の南の通り)と、この北馬場(きたばば)がありました。
    昔あった堀は、今は埋まってしまって残っていませんが、観察すると松本神社から東の方にむかって、裁判所、市の駐車場と土地が長方形に区切られていることが分かります。これが昔堀だった跡。松本市今井に市民プールが移る前は、ここに市営プールがありました。
    堀があるときから、水が湧き出しているところがあって、そこをのちに井戸にしました。それが市の職員駐車場のそばにある「北馬場の柳(やなぎ)の井戸」です。きれいな場所で気持ちよく水を汲んでもらおうと井戸の周りを清掃している方がいます。駐車場の奥の方(南側)で木がはえて高くなったところは、昔の土塁(土をもりあげた守りの装置)の跡です。
    道の北側には、県歌「信濃の国」を作詞した浅井冽(あさいれつ)が生まれた家があった場所があります。

  • 徒歩約1分
  • 北門馬出しと大井戸

    北門馬出しと大井戸

    馬出しと堀の様子を一緒に見られる数少ない場所

    北門があった場所です。今は取り壊されて門は残っていません。お城の北側に住んでいた武士たちがお城に勤めに出かけていくときの通用門でした。
    門の北側には堀がありました。その堀の部分が、くぼ地として残っています。その堀の北側は馬出しで、敵が簡単に侵入できないようになっていました。馬出しにあった堀のあとは、家が建っていますが、道によって四角に区切られて跡を留めています。馬出しとセットなった堀の様子を伺うことができる松本城下でも数少ない場所のひとつです。
    明治になって、湧き出していた水を使って井戸がつくられました。今もたくさんの水が出ていて、近所の人たちは「大井戸(おおいど)」と呼んでいます。
    大井戸へ下る坂の上に立って左右をみると、片端(かたは)の方からの堀が曲がって西の方へつながっていく様子と、埋め立てられていますが堀があったことを示すくぼ地を見つけることができます。

  • 徒歩約3分
  • 初代市長・小里頼永の家の跡

    初代市長・小里頼永の家の跡

    松本市の土台を創った初代市長

    松本市は、明治40年に松本町から松本市になりました。そのとき初代の市長になったのが小里頼永(おりよりなが)でした。小里頼永の家がここにありました。
    小里は、松本の武士の家に生まれました。父親が江戸で仕えていたので生まれは江戸です。松本へ帰って藩の学校に学び、明治になると開智学校でも学びました。はじめ教員になり、そのあと新聞記者もしました。それから、議員になり政治家として力を発揮していきました。
    松本町長をやっていたとき、松本町が松本市になったので引き続いて初代の市長になりました。市長になると、長野市にある県庁を松本へもってこようとする運動を進めたり、軍隊の部隊を松本へ置くように運動をして松本五十連隊を設置したり、日本銀行の支店を松本市に開くことにしたり、高等学校を松本に造るよう働きかけて松本高等学校を造ったりしました。いずれも長野県庁があった長野市に負けない松本市をつくるという強い願いを実現したものです。小里は、昭和12年に辞めるまで、松本の市長を30年間続けてつとめました。

  • 徒歩約3分
  • 福島安正大将の生家跡

    福島安正大将の生家跡

    シベリアを馬で横断した陸軍大将

    軍隊の一番上の位が大将でした。福島安正(ふくしまやすまさ)は陸軍の大将になりました。また、シベリアを馬に乗り一人で横断したことで有名な人です。
    福島は殿様について江戸へ行き勉強をしていましたが、武士の世が終わると殿様からの援助がなくなり、勉強を続けるのも大変になりました。でも福島は、冬でも薄着1枚ですごし、寒くなると大声を出して本を読んで寒さをしのぎ、本は友達の持っているものを借りて写しとって、貧乏にも耐えて勉強したといいます。そして外国語を自由に使えるようになり、陸軍に入ると、外国へ出かけて各国の軍隊の様子を見て報告をしました。
    明治25年、ドイツから日本へ帰ることになり、ただ一人でヨーロッパからロシア、さらにシベリアを通って日本へ戻ってくることを計画しました。馬とともに旅をし、途中たいへんな苦労をして日本に帰り着きました。その距離は14000キロメートル、かかった日数は488日でした。このニュースは人々をとても驚かせました。
    日本はその後、清(中国)やロシアと戦争をしますが、福島の調査はその国の様子を知るために大いに役立ったといいます。

  • 徒歩約2分
  • 高橋家住宅

    高橋家住宅

    江戸時代の武士の家を今に残す建物

    今の松本市街には、江戸時代の家があまり残っていません。何度も大きな火事があってたくさんの家が燃えたり、人が代わって造りかえられたりしたからです。
    高橋家は、江戸時代の武士の家の様子を今に残す、貴重な建物です。家の方が代々守ってきましたが、建物が市に寄付されたことをうけて、修理復元工事を行って、人々に見てもらえるようになりました。
    江戸時代は身分が厳しく決まっていた時代ですので、住む家も場所も仕事の内容も決められていて、自分の自由にはならない時代でした。家は殿様からもらいました。高橋家の人々はここで生活し、当主は藩の役所へ勤めに出かけていきました。
    家の前の塀や屋根板を石で押さえている様子や、部屋の間取りや柱や天井の様子、4つある部屋の様子、台所の様子、裏庭の井戸、室内の当時の生活の様子が分かります。

  • 徒歩約1分
  • 大門沢川

    大門沢川

    城下を町と田畑に分ける大事な川

    大門沢川(だいもんざわがわ)は、アルプス公園の西側から流れ出す「西大門沢川」岡田の諸窪(もろくぼ)から流れ出す「大門沢川」本郷(ほんごう)の稲倉から水をとりいれた「東大門沢川」の3本の川がだんだんに合わさって南に流れ、中央図書館のところで1本になります。
    松本の城下の北西はこの大門沢川を境にして、東側が城下町、西側は村で田畑になっていました。大門沢川は、現在でもクネクネと曲がり、場所によっては直角に曲がって流れているところもあります。ふちは石垣になったり、コンクリートの壁になったりしていますが、川の流れる道筋は昔とそう変わっていないように見受けられます。水が出ると大水になることがあり、人々を困らせることがありました。
    写真の右側が徒士町(おかちまち)の通りで、左側は沢村です。徒士町側には木戸があって城下町に怪しい人が入らないようにしていました。左側には賢忠寺(けんちゅうじ)というお寺が建っていました。

  • 徒歩約1分
  • 賢忠寺の跡

    賢忠寺の跡

    子どもの病気を治すと伝えられているお地蔵さん

    大門沢川を渡ったところにお寺がありました。このお寺は水野の殿様が松本へ来たときに造ったお寺です。賢忠(けんちゅう)というのは水野氏の祖先の水野忠重(ただしげ)のことで、祖先の位牌をここにまつりました。
    また、殿様の夫人の実家の位牌もまつりました。水野の殿様が松本を去った後もお寺は続いていましたが、明治になって、お寺はなくなってしまいました。
    お寺の跡に、一体のお地蔵さんが立っています。このお地蔵さんは石で造られていますが、首と胴とが離れています。あるとき、近所に泥棒が押し入り、家の者を殺して物を盗っていきました。人々がかけつけると、家の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。人々は「あっ、助かったものがいる。」と喜んで家の中に飛び込み赤ちゃんを抱き起こしました。すると、赤ちゃんの脇に石のお地蔵さんの首が落ちていました。人々は、「これはお地蔵さんが身代わりになって、この子を助けてくれたに違いない。」とお地蔵さんに感謝しました。それから、子どもが病気になるとこのお地蔵さんの首を家に借りていき、お詣りをして子どもの病気を治してもらうようになった、という話が伝わっています。
    賢忠寺の西側には、修験(しゅげん)の修行をする人たちがいた三蔵院(さんぞういん)という建物があって、そこには古い時代の大日如来や不動明王などの仏像がまつられています。また昔の村境に置かれて村の中に怪しいものが入ってこないように村を護っていた道祖神もまつられています。