東コース

太鼓門を出発し、町人町を歩くコースです。
城下町の東西南北の入口に置かれていた4つの十王堂のうち、十王の像が唯一残っている「餌差町の十王堂」や、県宝になっている念来寺の鐘楼などがあります。

ルートマップ

東コースのポイント

  • 太鼓門

    太鼓門

    本丸や二の丸につながる堂々とした立派な門

    太鼓門(たいこもん)はお城の本丸や二の丸へ入るための門で、大事な門でした。堂々とした姿でとても立派に造られています。
    太鼓門の横にやぐらが建てられていて、そこに太鼓と鐘が置かれていました。この太鼓と鐘は城下の人々に時刻を知らせたり、武士がお城へ集まってくるときの合図を打ったりするときに使われました。そこで、この門は太鼓門と呼ばれました。
    ところが、武士の時代が終わると、明治4年に壊されてしまいました。
    お城にとって大事な門なので、なんとかこれを復元したいと多くの市民が願っていました。その願いが実って、平成11年に復元されました。
    門の東側に、松本城で一番大きな石が置かれています。この石は松本城天守を造った石川康長(やすなが)公の役の名をとって『玄蕃石(げんばいし)』と呼ばれています。

  • 徒歩約7分
  • 袋町

    袋町

    袋の底のように見える道がある武士の町

    城下町の北部には、善光寺街道に添って町人が住んでいた町があり、そことは別に武士が住んでいた町もありました。
    東門から出て、総堀の跡を左に見ながら、片側にだけ家があることからついた片端(かたは)という町を北へ行くと、片端と新町の境のところに、上馬出し(かみうまだし)と呼ばれている東へ行く道があります。その途中から北へ行く道が「袋町(ふくろまち)」と呼ばれる武士の町です。
    南の方から北の方を見ると、北の端で行き止まりのように見えます。ところが北の端まで行くと、道は右に折れてすぐまた左へ折れてそのまま続いていきます。このような道の形を鈎の手(かぎのて)といいます。見た目に底が閉じられた袋のように見えるところから袋町という名前で呼ばれています。攻めてきた敵は、この先は袋のようになっているから誰も守っていないだろうと思って油断しているところを、隠れていた兵が攻めかかるという仕組みです。

  • 徒歩約5分
  • 紙漉川

    紙漉川

    近くに紙をすいている家があったことから付いた名前

    紙漉川(かみすきがわ)は、北の城下町の中を南北に流れ下る川の一つです。東町と上横田町の裏を流れて、両方の町の境になっています。東町と上下横田町が作られたときに、生活に使う用水として計画的に引かれた小さな川だったと思われます。
    川は家の裏を流れて南へ下り、女鳥羽川に流れこんでいます。水の量は少ないですが、石が積まれている様子など、昔使われていた川の様子を見ることができます。
    多くの水を使って、木の皮から紙を作ることを紙すきといいました。紙を作るにはたくさんの水が必要でした。この川の近くに紙をすいている家があったことから、川の名前が紙漉川になったといいます。
    東の方をみると、お寺の塔が見えます。そこには安楽寺(あんらくじ)(今は大安楽寺)というお寺があって、観音様がまつられていました。その観音様に通じる道なので、この道を観音小路と呼んでいました。

  • 徒歩約1分
  • 上横田町・下横田町

    上横田町・下横田町

    城下町を守るための寺が並ぶ町人の町

    城下町の東側には善光寺街道の通りである東町が南北にとおり、その東側には上横田町・下横田町が東町に並んでありました。東町と上下横田町とは小路と呼ばれる何本かの道で繋がっていました。東町も上・下横田町も町人が住む町でした。
    横田町の東側は城下町の外れになります。ここにはお寺が置かれていました。これらのお寺は、城下町が造られた時に、城下町を守るために計画的に造られました。他の城下町にもお寺が集まっている町があって、寺町という名の町になっているところもあります。松本では寺町と呼びませんが、ほかの城下町と共通しています。

    • 長称寺 浄土真宗大谷派、本願寺末寺、木曽山義仲院長称寺。本尊は阿弥陀如来です。上横田町。
      寛永2年(1625)松平丹波守康長が、寺を和泉町に移し帰依しました。明暦2年(1656)に、水野出羽守忠職(水野家第二代城主)が寺院を建築し万治3年(1660)できあがりました。
      戸田光和(みつまさ)(後の戸田氏第四代城主)の生母の墓があります。
      墓石表に「壽專院殿快顔智慶大姉」「天明八年(1788)庚申十月二十六日」と刻まれています。戸田光雄准室光和生母久田氏です。

    • 林昌寺 浄土宗、知恩院末寺、稲荷山林昌寺。本尊は阿弥陀如来。上横田町。
      松平丹波守康長がこの寺に帰依して、稲荷山清伝院林昌寺と改めさせました。一説には、犬飼治右衛門康樹、法号を林昌という人が林昌寺と改めたともいいます。寺の庭園に藩主水野候の築設に係ると言い伝えられる皷ヶ瀧があります。
      林昌寺の境内の一角に稲荷社「林昌稲荷」があります。

    • 惠光院 臨済宗妙心寺末寺。圓覺山惠光院。本尊は釋迦如来、不動明王。上横田町。
      清水に蓮名寺という寺があり、寛永17年(1640)8月城主堀田加賀守正盛が弟佐兵衛の法名惠光院殿空覺宗圓居士から惠光院としたといいます。寛永19年(1642)7月水野隼人正忠清が松本城主となるにあたり、堀田氏は水野氏に寺の保護を頼み、水野氏が引き継ぎました。

    • 正行寺 浄土真宗東本願寺末寺。大寶山専修院正行寺。本尊は阿弥陀如来。下横田町。
      了智上人が開祖。元は、島立の北栗林にあり、文禄元年(1592)六九(千歳橋北西横、女鳥羽川沿い辺り)に移し、石川伯耆守康昌(数正)が菩提所としました。慶長年間(1596〜1614)城濠拡張のため現在の場所に移りました。
      本堂裏手に戸田光悌(みつまさ)(後の戸田氏第五代城主)の生母墓があります。「淸澄院殿釋尼唯戒妙甫正定聚」「享和二年(1802)壬戌六月二十六日」と刻まれています。戸田光雄准室光悌生母谷口氏です。

  • 徒歩約10分
  • 餌差町の十王堂

    餌差町の十王堂

    極楽か地獄か、裁判長の閻魔大王

    松本の城下町の東西南北の入口にあたるところには十王堂(じゅうおうどう)が置かれていました。東の出入り口にあたる餌差町(えさしまち)には地蔵菩薩をまつった「放光庵(ほうこうあん)」の右側に「閻魔堂」があって十王をまつっています。城下の入り口を固める4つの十王堂のなかで、十王の像が残っているのはここだけです。なかでも閻魔大王の像は大きくて立派な像です。
    十王というのは、人が生きていたときに良いことをしたか悪いことをしたかを裁判する役目をもっていると信じられていました。閻魔大王はその中心で、いわば裁判長です。死んだ人が閻魔大王の前でいろいろ聞かれます。そして、その内容によって極楽にいけるか地獄に落ちるかが決まりました。ですから、人々から大変恐れられ敬われました。
    昔の子どもたちは、大人たちから「嘘をつくと、閻魔大王に舌を抜かれるぞ」と言われました。閻魔大王に舌を抜かれては大変だ、嘘を言わないようにしようと心に誓ったものです。

  • 徒歩約2分
  • 念来寺の鐘楼

    念来寺の鐘楼

    長野県宝にもなっている江戸中期に建てられた鐘楼

    念来寺(ねんらいじ)というお寺があり、明治になってお寺は壊されてこの建物だけが残りました。昔は大きな鐘がつるされていて、人々に時刻を知らせたり、大きな災害が起きたことを知らせたりするために鳴らされました。
    この建物は水野氏時代に建てられたもので、宝永2年(1705)に大坂の大工たちが建てたという記録が残っています。高さは約13メートルあり、仰ぎ見ると軒先には雲の模様が一面に彫られた板がはりこまれ、鐘が吊り下げられていたところには方位が書かれています。鐘は太平洋戦争のとき供出されて無くなってしまいました。この建物は江戸時代の建築として優れているということで、平成24年に長野県宝になりました。
    この鐘楼のわきに、妙勝寺(みょうしょうじ)が新しく本堂などの建物を建て、墓地とともに鐘楼を守っています。

  • 徒歩約4分
  • 伊織霊水

    伊織霊水

    農民の味方だった鈴木伊織の墓のそばに出る井戸

    井戸の横に大きな石碑が2つ立っています。向って左側の碑は鈴木伊織(すずきいおり)の墓と伝えるものです。
    鈴木伊織は、水野氏に仕えた武士で、多田加助(ただかすけ)たちたくさんの農民が参加して、年貢の量を増やすことに反対して起こした貞享(じょうきょう)騒動のときに、農民たちに同情した武士のひとりだったといわれています。伊織が亡くなった時、農民たちが見舞いに行こうとするのを藩は禁止した記録が残っています。
    伊織の墓のそばに出ている井戸なので、その名をとって伊織霊水と呼ばれています。
    井戸の東側には墓地がありますが、江戸時代にはここに本立寺(ほんりゅうじ)というお寺がありました。このお寺は西側に入口があったので、中町からお寺まで入ってくる通りを本立寺小路と呼んでいました。

  • 徒歩約4分
  • 上土の牢屋跡

    上土の牢屋跡

    松本藩の牢屋があった場所。罪人が一人もいなかった時代も

    松本藩の牢屋が置かれていました。牢屋の中は、身分によって入れられる場所が違っていました。松本の場合は具体的に分かっていませんが、一般的には畳が敷かれた揚屋(あげや)という場所には武士やお坊さんや神主さんや有力な町人や農民が入れられ、一般の人たちは牢舎という、何人ものの人が一つの部屋に一緒に入れられる場所に入ったといいます。
    戸田氏の時代のことを書いた書物には、昔は罪人が4・5人は常に牢屋にいたが、光悌(みつよし)という殿様の時は罪人が一人もいなくなって、殿様の治め方がよいからだと人々が感心したと書かれています。
    道の西側には堀がありました。気を付けてみると地面が下がっているところが見えます。堀を掘ったとき、掘り上げた土を使って町ができたので「上土(あげつち)」という名になったといいます。

  • 徒歩約1分
  • 東門と馬出し

    東門と馬出し

    松本城に4つある中では一番広い馬出し

    三の丸から外へ出る場所で、東門と馬出し(うまだし)がありました。東門がありその東には堀を渡る土橋が延び、その先が馬出しです。
    門は櫓門で3間(約5.4メートル)×6間4尺(約12.1メートル)の規模、門の西には広場が設けられ、番所や井戸もありました。土橋の長さは18間(約32メートル)ありました。
    その先にあった馬出しは、松本城に4つあった中では一番広いものでした。正面には土がもられ外から中が見通せないようになっていました。
    出入り口は南と北にあり、北は堀を板橋で渡り、南は土橋で渡るようになっていました。北の橋をわたって右におれると東町の通りに通じます。この通りを「下馬出し(しもうまだし)」と言いました。