城下町の成立
城主によって作られた町
城下町の成立について書かれたものは、水野氏時代に著された『信府統記』です。これにより、城下町の成立の様子をみます。
小笠原貞慶の代(1582〜1590)
天正13年から宿城の地割をした。15年までに市辻・泥町(地蔵清水や柳町)付近の町屋を本町へ移動した。東町・中町を確定し、麻葉町を安原町と改称し、西口を伊勢町と名付け、各枝町も地割をした。和泉町・横田町・飯田町・小池町・宮村町・馬口労町などの名を定めたが人家はまばらであった。
三の曲輪を縄張して、堀を掘り土手を築いて、5か所の大木戸を構えて南を追手にして士屋敷を建てた。泥町を柳町とした。石川数正・康長の代(1590〜1613)
天守を建て総堀を浚って幅を広げ土塁を高くし石垣を築いた。黒門・太鼓門を建て、大木戸5か所を門櫓にした。士屋敷を建て続け、片端の町をつくり、宮村町に徒士屋敷を設けた。
小笠原秀政の代(1613〜1617)
宮村明神境内に天神社を勧請し、その前面に天神馬場を設けた。
戸田康長の代(1617〜1633)
安原町の西に徒士屋敷を建て、その北に足軽町を設けた。
松平直政の代(1633〜1638)
南門の外の女鳥羽川沿いに厩を造り、六九馬屋という。新町・片端等に士屋敷を建てた。田町に与力同心屋敷を建てた。
堀田正盛の代(1638〜1642)
上土に土蔵を造った。
水野氏の代(1642〜1725)
『信府統記』とは別の史料に、北馬場・鷹匠町・西堀に士屋敷を建てたとあり、水野氏統治の時代に城下町の姿が完成したといわれている。