松本城を残し伝える

松本城は「史跡」

史跡標柱、昭和5年に指定されたことが書かれている

わずかに残された総堀

西総堀土塁公園

松本城の天守は国宝です。しかしそれだけではなく、その周りにある石垣や堀なども、国の史跡に指定されていて、天守と同様に大切なものです。写真は史跡標柱で、昭和5年に指定されたことが書かれています。

江戸時代の松本城は、現在松本城公園となっている、天守のある本丸・博物館などがある二の丸だけではありませんでした。公園の南側にある大名町や、東側の市役所のあるあたりなども三の丸とよばれる城の範囲でした。江戸時代が終わり、明治時代になるとお城は不要なものとなり、堀の多くは埋められ、土塁のほとんどは崩されて、三の丸の一帯は市街地となりました。

昭和になり、天守のある本丸、その周囲の二の丸一帯は国の史跡になりましたが、その範囲の中にもかつては裁判所や学校が建てられていました。それらはやがて城の外に移転し、公園として整備され、現在の松本城公園となりました。また、わずかに残された総堀や、近年整備された西総堀土塁公園も、史跡松本城の一部です。

下の図は、江戸時代享保13年(1728)の絵図を、平成16年の松本市都市計画図に重ね合わせたものの一部です。三重の堀に囲まれている松本城の様子がわかります。

『享保13年(1728)秋改松本城下絵図』による城郭と城下町の復元図(平成16年の都市計画図に重ねてある)
町名は同上絵図に載っている名称を主とし、絵図にない名称は()で表記した

史跡松本城の整備

平成23年の地震によって傷んだ埋門南側石垣の改修

ケヤキの根によって傷んだ内堀の二の丸御殿跡西側石垣を改修

江戸時代が終わり、松本城内にあった多くの建物は取り壊されました。残っていた建物は天守・二の丸御殿・南隅櫓など、わずかなものでした。しかし二の丸御殿は明治9年(1876)に焼失、南隅櫓もやがて取り壊されてしまい、松本城に残されたものは、天守の他、石垣(土塁)・堀だけとなっていました。

戦後、国宝松本城天守が解体修理され、その後黒門や内堀の一部が復元されました。昭和35年(1960)に、黒門一の門を復興し、平成11年に太鼓門が復元され、史跡松本城も整備され始めました。その目指すところは、松本城の最後の時代、幕末期です。その整備に向けて、さまざまな計画がつくられました。現在その基本としているのは、「松本城とその周辺整備計画」です。その策定を行っている史跡松本城整備研究会は、研究者・有識者を委員とし、国宝松本城天守のみならず、史跡としての松本城のよりよい整備に向けて研究を行っています。

史跡松本城は、400年以上の風雪に耐えてきましたが、石垣は孕み出し、時には崩落したこともあります。それらの石垣の改修も、松本城を後世に伝えるための大切な事業です。平成26年には、平成23年の地震によって傷んだ埋門南側石垣や、ケヤキの根によって傷んだ内堀の二の丸御殿跡西側石垣を改修しました。江戸時代の石垣の改修には多くの費用や長い時間がかかります。国や県の補助を得ながら、少しずつ実施しています。

現在進められている南・西外堀復元事業も、幕末期の松本城の姿を目指している事業の一環です。今後も多くの皆様のご協力をいただきながら、整備に努め松本城をより充実させていきます。

松本城およびその周辺整備計画(PDF 14.8MB)