南コース

大名町から大手門跡、観光地としても人気の高い縄手や中町通りを通り東門に戻るコースです。
下町ならではの「丁字路」や「食いちがい」の道が見られ、地元の人々が日常的に利用している井戸もあります。

ルートマップ

南コースのポイント

  • 大名町・大手門

    大名町・大手門跡

    町人は入れなかった武士の町

    大手門から真直ぐ北に伸びた道を大名町(だいみょうちょう)といいます。大名小路とも呼ばれていたこともあります。道幅は6間(約11メートル)ありました。
    大名町の通りの東側には4軒、西側にも4軒(後に7軒に分けられる)と、大きな敷地の武家屋敷が建っていました。ここに家があった武士は、藩の中でも高い役職の人達です。
    一番大きな屋敷を持っていたのは、享保13年(1728)当時に1000石だった林忠左衛門でした。城代家老野々山氏に次ぐナンバー2でした。
    大名町に入ることができるのは武士だけで、町人は勝手に出入りできませんでした。

    三の丸の南にあった門は大手門と呼ばれ、松本城の正門になっていました。ここには櫓の上に大きな門が一つ、その前に桝形(ますがた)という広場、さらにその外側にはもう一つ門がありました。警備をする番人がいる番所も二ヵ所にあって、厳しく守っていました。
    現在、本町から来た道が千歳橋(せんさいばし)を渡ってS字型に曲がって大名町へ繋がっているのは、江戸時代の大手門桝形がここにあった名残です。
    東側の広場になっているところは、江戸時代には桝形と総堀があったところで、平成24年に発掘調査をしたところ、石垣の跡と埋められた堀が地下から出てきました。その様子が掲示板で示されています。女鳥羽川から南が町人達の住む町になっていました。

  • 徒歩約1分
  • 縄手

    縄手

    縄のように長い1本道

    縄手(なわて)は、縄のように長い1本の道が、一番外側の堀(総堀)と女鳥羽川の間にあったことから名が付いたといいます。現在はたくさんの店が並んでいて、たくさんの人が町の中を楽しそうに歩いていますが、昔は女鳥羽川沿いに松の木が並んで立っているだけの寂しいところだったといいます。縄手通りの北側には総堀がありました。その堀はだんだんに埋められてしまいましたが、四柱神社(よはしらじんじゃ)の鳥居の北側の橋のたもとに、微かに跡を残しています。

  • 徒歩約1分
  • 中町、食いちがいの道

    中町、食いちがいの道

    商店が並ぶ中町、食いちがいの道で城下の守りも

    女鳥羽川の南にある、東西に長い通りが中町(なかまち)です。江戸時代には、本町・東町とともに、親町三町(おやまちさんちょう)と呼ばれ、松本城下町の大事な町の一つでした。善光寺へお参りに行く人達が通る道でもあったので、中町の道は善光寺街道とも呼ばれていました。
    江戸時代には、今と同じように、お店で物を売る商売をする人達や物を作る職人さん達が店を出していました。
    通りを歩くと、土蔵(どぞう)造りのお店が目に入ります。これは明治時代に続いて起きた火事から学んで、燃えにくい建物として土蔵を造ったことによります。 中町へは、いくつかの道が交わります。そのうち北側から交わる道を注意して見ると、北へ抜ける道が南側から来る道とずれていることに気がつきます。これは「食いちがい」という道の付け方です。突き当たったら先に道がない「丁字路(ていじろ)」という道の形とともに、敵兵が簡単に城に着くことが出来ないようにした、城下町の守りの仕組みです。

  • 徒歩約8分
  • 本町と極楽寺

    本町と極楽寺

    松本城下のメインストリート

    大名町が武士の町のメイン道路なら、本町(ほんまち)は町人の町のメイン道路です。
    本町には有力な町人が住んでいて、藩でもその人達に町の大事な仕事を任せていました。倉科氏が任された「本陣」や「問屋」、今井氏が任された「使者宿(ししゃやど)」といった公の建物もこの町にありました。
    商人達の中には、各地から商品を集めたり、それを分けて各地へ送り出したりする問屋をやって大きく商売をしている人もいました。
    本町には西から伊勢町がつながり、その角には「牛つなぎ石」があって、一月の飴市の時には今も多くの人で賑わいます。また、東の方からは中町や生安寺小路(しょうあんじこうじ)(今の高砂通り)や鍋屋小路(今の「あがたの森」から来る通り)が繋がっていました。

    北林山極楽寺は浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の弟子海野重広(うんのしげひろ)が小県(ちいさがた)に開いたと伝えられています。武田信玄によって島立(松本)に移り、戸田康長の代に本町1丁目に移り、水野忠職(みずのただもと)の代、明暦3年(1657)に本町5丁目の現在地に移ったといいます。
    極楽寺の北の道は天神小路とよばれ、深志神社へ通じる道です。その道と極楽寺の間に天神馬場という馬場がありました。
    極楽寺の南は長沢川が流れ、そこにかかる橋は「袖留橋(そでとめばし)」と呼ばれていました。現在は緑橋という名になっています。

  • 徒歩約4分
  • 博労町と十王堂

    博労町と十王堂

    馬のお世話をする博労たちが住んでいた町

    博労町(ばくろうまち)は松本城下町の一番南の町です。南から来た旅人は、薄川(すすきがわ)に架かった橋を渡って城下町へ入りました。
    馬の世話をして荷物を着けた馬を引いて歩く仕事をする人を「ばくろう」といいました。この町には、ばくろうが多くいたので、この町の名となったといいます。松本の町へ荷物が入ったり出たりする拠点になっていた様子が偲ばれます。
    町の南、薄川の橋に近いところに十王堂(じゅうおうどう)が立っていました。この十王堂は城下町の南を守るために、天守を造った石川氏の時代に造られたといいます。十王というのは、地獄で死んだ人の裁判を行う仏です。閻魔大王を中心にして10の仏がいるので十王といいます。現在お堂は無くなってしまい十王もいませんが、地獄へ落ちた人々を救う役目をもった石で造ったお地蔵さんが大切にまつられています。寛永20年(1643)という年号が入った石造物もあります。

  • 徒歩約8分
  • 深志神社

    深志神社

    盛大な祭りが城下町を盛り上げる

    現在は深志神社と呼ばれています。昔は宮村大明神と天満宮の2社がありました。奥にある本殿の棟につく神様のマーク(神紋)を見ると、右は諏訪大明神の「梶の葉」の紋、左は天神様の「梅」の紋で、神様が別々であることを示しています。
    松本城下町の南側の人々が氏子で、昔から盛大なお祭りが行われました。各町内では舞台を引いて祭を盛り上げます。
    境内には、いくつかの御社があります。その中の一つが市神宮で、飴市の時、ここから市神様が本町へ出てそこにまつられます。
    歌を刻んだ石碑も多く建っています。なかでも狂歌堂真顔(きょうかどうまがお)の歌「立て廻す 高嶺は 雪の銀屏風 中に墨絵の 松本の里」は高い山々に囲まれた松本の街の冬景色を見事に表現した歌です。

  • 徒歩約3分
  • 松本にあった銭座

    松本にあった銭座

    お金を造っていた場所

    江戸時代のお金は、大判小判に代表される金貨と丁銀などの銀貨と寛永通宝のような銅銭が使われていました。それぞれのお金を造っていた場所は、金座・銀座・銭座と呼ばれていました。
    一時松本にも銭座がありました。それを記念して建てられているのがこの碑です。松本は寛永13年(1636)松平直政の代に銭座が開かれました。銭座を開く許可をもらった人は今井勘右衛門で、溶かした銅から寛永通宝をつくるのは三輪忠兵衛でした。その場所は鍋屋小路ということは分かっているのですが、どこであったか見つかっていません。
    全国で銭座が置かれたのは松本をはじめ、水戸・江戸・仙台・三河吉田・長門などです。それらの地で盛んに銭が造られ十分な量になったため、1640年には松本の銭座での銭造りが終了しています。

  • 徒歩約6分
  • 源智の井戸

    源智の井戸

    現在も愛される名水

    松本の町に、源智(げんち)の井戸という名水がわき出る井戸があると広く人々に知られていました。現在もたくさんの人が水を汲みにやってきます。
    昔は水道がなかったので、人々は川の水や井戸の水を使っていました。源智の井戸のあたりは、地下水が地面まで出てくるところが多く、水には不自由しなかった場所ですが、それでも人々は源智の井戸に水を汲みに来ました。そこで殿様は、井戸を汚さないで使うようにという命令を出して、井戸の脇に立てさせました。殿様がわざわざこのような命令を出して守っている井戸は他にありません。
    とても良い水だったので、人々が使うだけでなくお酒造りにもこの水が使われました。

  • 徒歩約4分
  • 伊織霊水

    伊織霊水

    農民の味方だった鈴木伊織の墓のそばに出る井戸

    井戸の横に大きな石碑が2つ立っています。向かって左側の碑は鈴木伊織の墓と伝えるものです。
    鈴木伊織は、水野氏に仕えた武士で、多田加助らたくさんの農民が参加して、年貢の量を増やすことに反対して起こした貞享騒動(じょうきょうそうどう)のときに、農民達に同情した武士のひとりだったと言われています。伊織が亡くなった時、農民達が見舞いに行こうとするのを藩は禁止した記録が残っています。
    伊織の墓のそばに出ている井戸なので、その名をとって伊織霊水と呼ばれています。
    井戸の東側には墓地がありますが、江戸時代にはここに本立寺(ほんりゅうじ)というお寺がありました。この寺は西側に入口があったので、中町からお寺まで入ってくる通りを本立寺小路とよんでいました。この辺りはお寺が集まっていました。

  • 徒歩約5分
  • 東門と馬出し

    東門と馬出し

    松本城に4つある中では一番広い馬出し

    三の丸から外へ出る場所で、東門と馬出しがありました。門の東には堀を渡る土橋が伸び、その先が馬出です。
    門は櫓門で3間(約5.4メートル)×6間4尺(約12.1メートル)の大きさ、門の西には広場があり、番所や井戸もありました。土橋の長さは18間(約32メートル)ありました。
    その先にあった馬出は、松本城に4つあった中では一番広いものでした。正面には土が盛られ外から中が見通せないようになっていました。
    出入り口は南と北にあり、北は堀を板橋で渡り、南は土橋で渡るようになっていました。北の橋を渡って右に折れると東町の通りに通じます。この通りを「下馬出し(しもうまだし)」といいました。