大天守
一階
天守の壁と下見板
松本城天守の壁の下部は「黒漆塗の下見板」で、上部は白漆喰仕上げです。下見板の役割は、天守の屋根で防ぎ切れない雨水をはじき天守の壁を守ること。当時は壁全体を白漆喰で塗ると雨によって崩れるリスクが高いので、下見板が用いられました。下見板張りの天守の壁は50年の耐久性があったといいます。
右の写真は、昭和の大修理の際に切り取られた天守二階の壁です。厚さ約29センチメートル、壁の中心にはナルと呼ばれる木の枝を縄で絡げ、その外側に泥を塗って仕上げています。この厚さでは火縄銃の弾丸は通しません。天守の壁は、三・四階、五・六階と上の階になるほど薄くなっています。
外側の薄い壁は、明治の大修理時に塗り足したものです。
石落
石落は、石垣を登る敵兵に石を落としたり、熱湯等をかけたりして、天守を守る装置でした。戦いの主要武器が火縄銃となった戦国末期にはここから這い上る敵兵に火縄銃を撃ったと考えられています。松本城には渡櫓・乾小天守・大天守各一階に合計11か所の石落が備えられています。石垣の両隅と中間にあり、内ぶたを開けると内部から約57度の傾斜をもつ石垣をみることができます。
天守一階の土台と武者走り
天守一階に、武者走りとそれより一段約45センチメートル高い母屋部分があります。母屋部分が高くなっているのは、土台を二重に入れたためです。床下を見ると二重に組み合わせた土台が確認できます。
展示品
武者走りを進むといくつかの展示ケースがあります。昭和の修理の際に取り替えられた材などの資料が展示されています。
鯱真木
鯱真木は天守に据えられた鯱を支えるための芯木です。190センチメートルの真木を棟木に取り付け、先端約80センチメートルが鯱の中に入っていました。「天保十四年(1843)四月取替」と墨書きされており、江戸時代末に取り替えられていたことがわかります。
天守の壁
昭和の修理の際に切り取られた大天守二階の壁です。厚さは29センチメートルと分厚く、中にはナルと呼ばれる縄を組み込んで泥を塗り、白漆喰で仕上げています。更に外側にはもう一段漆喰壁があり、これは明治の修理の時に足したものです。
鯱瓦(しゃちがわら)
この鯱は大天守につけられていたものです。鯱は火災の際に水を吐くという想像上の魚で、口が空いているのが雄、閉じているのが雌です。松本城の鯱は南側が雄、北側が雌で、雌の方が若干小さく作られています。現在据えられているものは、乾小天守の鯱を模倣して製造されたものです。
土台支持柱
天守台の中に埋め込まれた16本の栂の柱のうちの1本です。昭和に行われた発掘調査では、この土台支持柱の大部分が腐食し、形を成していたのはこの1本だけでした。この柱が腐食していたため、重さ1000トンの天守は耐え切れず傾き始めたと考えられます。
蕪懸魚(かぶらげぎょ)
懸魚は本来中国では火災除けに魚の形をしていますが、日本では蕪の形を用いてきました。天守を外から見た時についている三角の破風と呼ばれる部分についています。ここに展示されているものは、昭和の修理で取り替えられたものです。
二階
武者窓/竪格子窓(たてごうしまど)
3連・5連の竪格子窓が見られます。格子に使われている部材は13×12センチメートルで、ここからも火縄銃を撃ったと考えられています。
木を継ぐ技術 舟形肘木(ふながたひじき)
梁を繋ぐとき、その部分が弱くなるので下から舟形をした材をあてて強化しています。柱もいたるところで継がれていて、修理時に用いられた金輪継ぎ等の技術を見ることができます。
松本城鉄砲蔵
大天守二階には火縄銃を主とした「松本城鉄砲蔵」の展示があります。ここには松本市出身の故赤羽通重・か代子夫妻が寄贈した141挺の火縄銃と兵装品のうち、一部が展示されています。収蔵品のページからも一部ご覧頂けます。
銃砲類の展示
鉄砲蔵には火縄銃の大産地として知られる国友(滋賀県長浜市)の小筒や、重さ16キログラムもの大筒、護身用の脇差鉄砲など様々な銃が展示されています。『長篠合戦図屏風』(大阪城天守閣蔵)の複製展示や当時の絵を用いた解説パネルを使用して、火縄銃について詳しく解説しています。
銃のからくり
火縄銃の製造方法について展示されています。分解した銃で構造を見たり、からくりの仕組みを知ったりすることができます。
当世具足
合戦における一般的な装備品を身に着けた甲冑が展示されています。刀を差した甲冑に、玉込め用のカルカを背中につけ、腰には玉入れ、肩からは瓢箪のような口薬入れ(点火薬)を下げています。これに火縄銃を装備すると、20キログラム弱の重量になります。
火縄銃に関連するイベント
- 火縄銃の演武毎年春と秋の二回、松本城では赤羽コレクション会松本城鉄砲隊による火縄銃の砲術演武が行われています。鉄砲蔵の展示だけでなく、演武もあわせてご覧いただき、迫力ある音と技を体感してみて下さい。
- 火縄銃に触れる9月には「国宝松本城鉄砲蔵見学会」が行われます。火縄銃についての歴史の話を聞いた後、実際に鉄砲蔵を見学したり、本物の火縄銃に触れたりと、貴重な体験ができます。案内は松本城鉄砲隊員がご案内します。
- 詳しくはイベント情報をご覧ください
二の丸御殿発掘調査
昭和54年~59年(1979~84)にかけて行われた二の丸御殿跡発掘調査で出土した遺物を展示しています。
焼塩壷
焼塩壷は現代でいう調味塩を製造する壷です。「泉湊伊織(いずみみなといおり)」と彫られており、泉州(大阪)で生産されたことが分かります。堺湊は明治時代まで塩の産地で、焼塩壷は製造に手間がかかるため高級品として全国に流通していました。出土したものは製造方法からみて、享保11年(1726)に入封した戸田氏の時代以降に使用されたものと考えられます。
食物関係の出土品
発掘調査では魚介類、哺乳類、鳥類などの骨が出土しています。ぶりや鯛、アワビなどの魚介類を展示しています。魚はコイ以外全て海で獲れたもので、新潟で獲れた日本海産や、愛知で獲れた太平洋産の魚を運んできたとみられます。
古銭
二の丸御殿では日本で鋳造された銭貨は寛永通宝、天保通宝、文久通宝の3種119点が出土しました。松本では寛永14年(1637)松平直政の時代に寛永通宝「松本銭」が鋳造されましたが、二の丸御殿では松本銭は出土しませんでした。
三階
二重目の屋根の下に隠れ窓のない階
ここは乾小天守三階と同じく下から二重目の屋根がこの階の周囲を巡ってつくられているため窓が作れません。隠し階、暗闇重などと呼ばれています。戦時は倉庫・避難所としてつかわれたと考えられています。
手斧削りによる貝殻状の「はつり紋」が美しく浮かび上がります。
四階
御座所
城主が天守に入ったときはここに座を構えたと考えられています。ただし、客人の接待場所ではありません。戦時に城主がここに籠る場合は、天守も戦闘の最終局面を迎えることになりました。三間×三間となっていて、小壁をおろし、内法長押を廻しています。
最も急な階段
四階の床と天井の間は4メートル弱あります。この高さの所へ、柱と柱一つ分の間に階段をかけるので松本城では最も急な61度の階段です。
ちなみに、大天守五階から六階への階段は、柱と柱二つ分の間に途中に踊り場を設けながら階段をかけてあります。床と天井の間は、4メートル強です。この高さは四階より約40センチメートルほど高いですが、柱と柱二つ分に階段が設置されているので、階段は四階ほど急にはなっていません。
五階
作戦会議室
この階には、東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、室内には破風の間があり、武者窓から全方向の様子を見ることができます。三間三間の空間があり、戦いのときには、重臣たちが作戦会議を行う場所として考えられています。
柱の傷
明治30年代になると天守は傾き、倒壊の危機が出たため、松本中学校長・小林有也を中心として明治の大修理が、明治36年(1903)から大正2年まで行われました。(明治34年に松本城天守閣保存会が発足し工事は同36年から開始。)この時傾いた天守に縄をかけて引き起こしたとの伝説があり、その縄の跡と伝えられる柱が五階北側にあります。
工事の方法は、昭和25年からの解体・調査報告によると、柱のほぞを切りながら高低を調整し床を水平にして傾きを直したと推定されています。
六階
二十六夜神
元和3年(1617)松本に入封した戸田氏がまつったとされています。月齢26日の月を拝む信仰で、戸田氏は毎月3石3斗3升3合3勺(約500キログラム)の米を炊いて供えたといわれています。関東地方に盛んだった月待信仰が持ちこまれたものと解されています。
桔木(はねぎ)構造
(『わたしたちの松本城』P.28から)屋根裏を見上げると太い梁が井の字の形に組まれ(井桁梁/いげたばり)、写真のように四方へ出て軒をつくる垂木の下に、さらに太い桔木が外側に向かって放射状に配置されています。これは天守最上階の重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるため、テコの原理を使った装置です。図のように屋根の中央部分の重量が力点にかかり、作用点は軒先になります。この仕組みは鎌倉時代の寺院建築から採用されています。乾小天守四階にも同じ桔木構造があります。
設計変更された勾欄
設計では六階の外周に勾欄がつくはずでした。しかし信州の寒さ対策、風雨・雪対策等上から壁を勾欄の位置まで出して六階が作られたといわれています。
展示品
国宝指定書(写)
松本城は昭和5年(1930)に国宝保存法によって国宝に指定され、戦後の昭和27年(1952)に現在の文化財保護法によって再指定されました。大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の五棟すべてが国宝に指定されています。
「天守櫓拝借懇願書」「建言書」(ともに写)
明治時代に松本城天守で行われた博覧会の際に提出されたものです。原本は松本市立博物館で常設展示されています。松本城は235両あまり(米価比較で約400万円)で落札され、取り壊しの危機にあいました。下横田町の副戸長、市川量造は天守を守るため5回にわたって松本城天守で博覧会を開き、その収益と寄附金で天守の買い戻しに成功しました。
⇒ 本丸庭園内には市川量造のレリーフ像があります