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その他の見どころ

市川量造と小林有也のレリーフ

松本城 市川量造と小林有也

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

水野忠直奉献灯籠

松本城 水野忠直奉献灯籠

東京・上野の寛永寺が寺域を整理するに伴い競売にかけたものを松本出身の人が買い付け、昭和28年10月21日に、松本城へ寄付したものです。

松本藩主水野忠直が、4代将軍家綱の供養に寛永寺に奉納したもので、
前面に 家綱の法号「厳有院殿」
寄進時「延宝9年5月8日」(1681年)
寄進者「信州松本城主 従五位下隼人正水野氏源忠直」などと刻まれています。

戸田家の灯籠

松本城 戸田家の灯籠松本城 戸田家の灯籠

戸田氏より寄贈された、石灯籠3基と手水鉢が1つあります。戸田家の江戸屋敷にあったものだといいます。石灯籠の1基と手水鉢は本丸庭園北東隅・北裏御門南側に、もう2基の石灯籠は、水野家関係の石灯籠の西に設置されています。

小笠原牡丹

松本城 小笠原牡丹

小笠原長時が武田信玄に追われて松本を去る時、山辺の兎川寺(とせんじ)の住職に託した牡丹と伝えられ、檀家の久根下(くねした)家で「殿様の白牡丹」として大事に守られてきたといういわれをもちます。

昭和32年に小笠原氏子孫の忠統氏へ贈られ、城に移植されました。平成18年にも久根下家から寄贈され、現在6本が毎年5月に白く美しい花を咲かせています。

駒つなぎの桜

松本城 駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜です。城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

戊辰戦争出兵紀念碑

松本城 戊辰戦争出兵紀念碑

明治37年(1904)に建てられました。

慶応4年(1868)2月29日に松本藩は新政府方への帰属を決め、以後官軍に加わって、宇都宮・北越・会津へ出兵しました。その戦いの様子を表面に、裏には出兵した261人の氏名を刻んであります。碑銘は嵯峨(正親町)実愛(さねなる)、撰文は藩士家出身岡田正美(まさよし)、石工は井亀泉(せいきせん)です。

古山地御殿跡

松本城 古山地御殿跡松本城 古山地御殿跡古山地御殿跡絵図「信州松本城絵図」(正徳2年頃)から作成されたもの(『歴史のなかの松本城』p27から)

石川数正が松本城主となった頃「慰ミ所」として古山地御殿(こさんじごてん)を造ったといわれています。初めは、「箇山寺」(石川数正の法名についている)と記され、水野氏時代に「古山寺」と改められました。戸田氏時代には「古山地」と記され、この地の固有名詞となりました。

この御殿は建坪が約178坪(587平方メートル)、部屋数30と本丸御殿の4分の1ほどで、本丸・二の丸御殿と比べると小さなものです。正徳2年頃の絵図を見ると、建物の中央部に坪庭が設けられ、この南側を座敷部にして北側は裏方で台所等があります。御殿の南西の端に「御風呂屋」が、北東角に「数寄屋」(茶室のこと)があり、さらに御殿の西側には、「鷹部屋」が10部屋あり、「庭籠」(にわこ)という小鳥小屋もあります。風呂場は中央部に方一間の囲いがあり、蒸し風呂の室であると考えられています。中央で左右に仕切られ、反対側が釜屋となっています。このような私的な部分があり、また「慰み所」は「なぐさめとなるところ。きばらし」という意味等があることから、公務を行うところではなく、藩主の私的な生活をする場と考えられています。享保12年(1727)に本丸御殿を焼失した戸田氏は、ここを拡張し新御殿を造りました。

若宮八幡跡

松本城 若宮八幡跡

島立右近貞永が永正元(1504)年、井河の城を松本の地に移し深志城としました。永正十四(1517)年島立右近が亡くなり、その嫡子島立七蔵が父をここにまつり、深志城の鎮守としたと伝えられています。

小笠原氏はここに稲荷をまつり、水野氏は神田明神をまつりました。水野忠直は、筑摩の三才にあった神社の社殿が壊れたときに、若宮八幡にあった社を三才に移したといわれ、三才の地には室町時代の様式を残す建物として重要文化財に指定された建物が現存しています。

若宮八幡跡のやや南側、埋橋北側に足駄塀とよばれる塀があり、この塀により内堀・外堀に分かれていました。

全国城郭管理者協議会加盟の城写真

松本城 全国城郭管理者協議会会員の城写真

本丸庭園南側に、全国城郭管理者協議会加盟の日本の城郭の写真が掲示されています。城郭名、所在地、別名、城の種類、築城者、築城年等の各城の情報も掲載されています。