松本城の歴史

松本城築城以前

  • 松本城周辺の山城

    松本城天守が建築される以前に、松本盆地を囲む山々に山城が築かれていました。ここでは代表的なものを紹介します。

    松本城周辺の山城(『わたしたちの松本城』P.58から)

    1. 林大城・小城 松本市山辺地区にあって、信濃守護であった小笠原氏が平地にあった井川城からこの山城を造って移りました。大城と小城が馬蹄形に存在しています。規模は大城の方が大きく、小城の本廓には石積みがみられます。天文19年(1550)に武田信玄に攻められて小笠原長時はここを放棄し、信州から撤退しました。
    2. 桐原城・山辺(中入)城 松本市山辺地区にあって、林大城より奥まったところにあります。桐原城は桐原氏の居城で武石峠を越えて小県郡へつながる道筋を押え、山辺城は山辺氏の居城で2.5メートルの高い石積みをみることができます。
    3. 埴原城 松本市中山地区にあって、大規模な山城ですが、城主関係は不明です。
    4. 稲倉城 松本市岡田地区にあって、後庁氏の居城です。
    5. 虚空蔵山城 松本市会田地区にあって、会田氏の居城です。虚空蔵山中に多くの石積みを残し、戦国時代末期には北の上杉氏と深志に入った小笠原氏との接点になったところです。
    6. 平瀬城 松本市島内地区にあって、平瀬氏の居城です。武田氏に追われた小笠原氏が勢力の回復をはかってここに籠り、反撃を試みました。
    7. 城山 松本市城山にあって、犬飼氏の居城です。ここには南北朝時代から砦が設けられていました。市民から城山と呼ばれ桜の名所として親しまれています。
    8. 井川城井川城
      井川城 松本市井川城地区にあって、小笠原氏が信濃へはいり、松本に定着した時以来、林城に移るまで居館があった場所です。ここは山城ではありません。
    9. 清水城 松本市島立地区にあって、小笠原氏の一族の島立氏がいたといわれています。平地に造られた城ですが、現在痕跡をかすかに残すだけになっています。
  • 深志城

    若宮八幡跡若宮八幡跡

    松本城のあたりには深志城があり、これが現在の城の前身であるといわれています。深志城についてははっきりしない部分が多く、松本城築城にどのように引き継がれたかはわかっていません。

    室町時代に深志郷を統治していたのは坂西氏でした。坂西氏の居館があってその周囲には人々が生活する場があったのではないかとみられています。そこに城を築いたのが島立氏で、永正元年(1504)に深志城を造ったといわれています。二の丸北西部にある若宮八幡の跡地が深志城主島立右近貞永の埋葬地であるという言い伝えが残っています。

    武田信玄は林城にいた小笠原長時を追い出すと、つぎの目標である北信濃への侵攻の拠点として、平地にあった深志城の場所を選びました。城代がおかれ、深志城にも改修の手が入りましたが、はっきりしたことは不明です。今後旧城下町の発掘調査が進むとこの辺りのことが明確になってくるでしょう。

    深志城を拠点とした武田氏の統治が32年間続きました。しかし、天正10年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、木曽から入った木曽義昌、それを追って上杉景勝の後ろ盾を得て入った小笠原洞雪と城主がかわりました。小笠原長時の嫡子貞慶は信濃に帰って旧臣の支援を取り付け、深志城を奪還して深志を松本と改めました。

    水野氏時代に編纂され、松本藩域を中心にした歴史・地誌を記した『信府統記』によれば、貞慶は天正13年より宿城の地割をし、三の曲輪を縄張し、堀を掘って土手を築き、四方に5か所の大城戸を構えて南門と追手と定めて小路を割り、士屋敷を建てたとされています。

    領内の平定と、城郭と城下町の建設に手をつけた貞慶でしたが、徳川家康の関東移動にともなって息子の秀政とともに古河へ移ることになり、天正18年、8年間いた松本を離れました。このあと、豊臣秀吉の命を受けた石川数正が松本へ入ってきます。

松本城の築城

  • 石川氏の入封

    石川数正は元々徳川家康の重臣でした。家康の人質生活をともに送り、家康が独立してからは岡崎城の城代を任され西三河の旗頭を務めていました。ところが天正13年(1585)、数正は一族を連れて大坂へ出奔し豊臣秀吉配下の一員になります。そして和泉国で10万石を与えられていました。天正18年、秀吉は古河へ移った小笠原氏のあとへ石川数正を入れました。

  • 天守をあげる

    石川数正は息子康長とともに小笠原貞慶が手をつけた城郭の整備と城下町の拡充に着手します。その様子を『信府統記』は次のように記しています。

    数正は二の曲輪に慰み所をつくり城普請を催す。康長は父の企てた城普請を継ぎ天守を建て、総堀を浚い幅を広くし、岸を高くして石垣を築き、渡り矢倉を造り・黒門・太鼓門の門楼をたて、塀をかけ直し、三の曲輪の大城戸を門楼にした。総堀の周りの塀は大方たち、城内の屋形も修造した。郭内には士屋敷を建て、郭外にも士屋敷を建てた。

    松本入封から2年後の文禄元年、数正は文禄の役で出兵中に滞在先で死去し、代は康長に替わります。『信府統記』も述べるように松本城天守の建築は康長の代になって急ピッチで進められていったとみられています。

江戸時代の松本

  • 歴代城主一覧

    松本の城主は6家23人です。このうち戸田家は2度松本へ入っています。石川氏は改易・御家断絶、水野氏は改易となっています。水野氏改易後戸田家が入るまでの間には幕府が直接管理をする時期があって、その任には松代藩の真田氏がつきました。※近世城郭としての松本城

    城主家城主名在任期間
    石川氏数正(かずまさ)天正18(1590)~文禄元(1592)
    康長(やすなが)文禄元~慶長18(1613)
    小笠原氏秀政(ひでまさ)慶長18~慶長20(1615)
    忠政(ただまさ)
    [忠真(ただざね)]
    慶長20~元和3(1617)
    戸田氏康長(やすなが)元和3~寛永9(1632)
    康直(やすなお)寛永10(1633)
    松平氏直政(なおまさ)寛永10~寛永15(1638)
    堀田氏正盛(まさもり)寛永15~寛永19(1642)
    水野氏忠清(ただきよ)寛永19~正保4(1647)
    忠職(ただもと)正保4~寛文8(1668)
    忠直(ただなお)寛文8~正徳3(1713)
    忠周(ただちか)正徳3~享保3(1718)
    忠幹(ただもと)享保3~享保8(1723)
    忠恒(ただつね)享保8~享保10(1725)
    〈幕府直轄〉
    戸田氏光慈(みつちか)享保11(1726)~享保17(1732)
    光雄(みつお)享保17~宝暦6(1756)
    光徳(みつやす)宝暦6~宝暦9(1759)
    光和(みつまさ)宝暦9~安永3(1774)
    光悌(みつよし)安永3~天明6(1786)
    光行(みつゆき)天明6~寛政12(1800)
    光年(みつつら)寛政12~天保8(1837)
    光庸(みつつね)天保8~弘化2(1845)
    光則(みつひさ)弘化2~明治4(1871)
    城主家主な官途石高前任地転封先
    石川氏伯耆守(数正)
    玄蕃頭(康長)
    8万石和泉国改易除封
    小笠原氏信濃守(秀政)
    右近大夫(忠政)
    8万石信濃飯田播州明石 10万石
    戸田氏丹波守(康長)
    佐渡守(康直)
    7万石上野高崎播州明石 7万石
    松平氏出羽守(直政)7万石越前大野出雲松江 18万6千石
    堀田氏加賀守(正盛)10万石武蔵川越下総佐倉 11万石
    水野氏隼人正(忠清他)
    出羽守(忠職他)
    日向守(忠幹)
    7万石三河吉田改易除封
    戸田氏丹波守6万石志摩鳥羽廃藩置県

    在任期間は初期のうちは短く、水野氏の代から長期になります。最長は2回目の戸田氏で145年間です。譜代の大名が城主となり、松平直政が家門の大名です。禄高は6万石から8万石で、堀田氏は江戸近辺の所領分3万石を合わせて10万石で入封しています。徳川将軍家との関係をみると、石川氏は徳川家を離れますがかつての重臣、小笠原秀政は家康長男信康の娘福姫(登久姫)を、戸田康長は家康の生母於大が生んだ義妹松姫を妻とし、松平直政は家康二男秀康の子、堀田正盛は3代家光の寵臣、水野氏は家康生母の実家筋と、徳川家と深いつながりをもった家々が城主となっています。

  • おもな出来事

    松本城や松本藩にかかわる主な出来事を略年表にしました。

    西暦(和暦)出来事城主
    1504(永正元)島立右近貞永が深志城を築くと伝える。 
    1550(天文19)武田信玄が深志へ攻め込む。小笠原長時は深志から逃れる。武田氏が深志城の改修に着手する。
    1582(天正10)織田信長軍が武田勝頼をやぶり、武田家が滅びる。
    深志城に木曽義昌が入る。その後上杉氏の後ろ盾で小笠原洞雪が入る。小笠原貞慶が洞雪を追い出して、深志を松本と改称し、城郭と城下町の整備に取り組む。
    1590(天正18)小笠原貞慶・秀政が古河へ移る。豊臣秀吉は石川数正を松本城主とする。石川氏
    1593(文禄2)松本城天守の建築が進む。
    1600(慶長5)関ヶ原合戦に石川氏は徳川方に加わる。
    1613(慶長18)石川康長が大久保長安事件に連座して改易になる。
    小笠原秀政が信濃飯田から松本へ入る。
    小笠原氏
    1614(慶長19)小笠原氏が徳川方として大坂冬の陣に参戦。石川数正の2男康勝は豊臣方に加わる。
    1615(慶長20)小笠原秀政・忠脩親子が大坂夏の陣で戦死する。
    1617(元和3)戸田康長が高崎から松本へ入り、城の北部に武家住宅地を広げる。戸田氏
    1633(寛永10)松平直政が松本城主となり、以後辰巳附櫓や月見櫓を天守に増設したり、城内外を整備したりする。松平氏
    1649(慶安2)水野忠職が領内の一斉検地をおこない、以後の土地台帳の基本となる。水野氏
    1686(貞享3)安曇郡中萱村加助を頭にして領内に大きな一揆が起きる(貞享騒動または加助騒動)。
    1725(享保10)水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こし、水野家は改易になる。松本城は幕府が収公し、松代の真田氏が城を受けとり預かる。水野氏の代に松本の城下町の姿が完成する。
    1726(享保11)戸田氏が再び松本へ入る。戸田氏
    1727(享保12)本丸御殿を失火で全焼する。以後戸田氏は本丸御殿を再建せず、古山地御殿を拡張した新御殿を建設して使用する。
    1743(寛保3)幕府から5万石余の幕府領を預かる。
    1760(宝暦10)中馬運送をめぐって信濃国内で大訴訟が起きる。
    1775(安永5)松本町大火(綿屋の火事)で城下町南部と三の丸・二の丸の一部を焼く。
    1793(寛政5)藩校崇教館を建設し開校する。
    1803(享和3)松本町大火(飴屋の火事)城下町東部と士屋敷や寺院を焼く。
    1816(文化13)安曇野に拾か堰が開削される。
    1825(文政8)打ちこわしをともなった百姓一揆が北安曇から起き、城下に迫る。(赤蓑騒動)
    1832(天保3)松本と信州新町間に犀川通船が開通する。
    1854(安政元)地震が発生し城内・町屋に被害がでる。(安政の大地震)
    1862(文久2)藩士伊藤軍兵衛がイギリス人を殺傷した第2次東禅寺事件を起こす。
    1863(文久3)浦賀の警備を命じられる。
    1864(元治元)第1次長州出兵を命じられる。水戸浪士が和田峠を通行し、松本藩は高島藩と共にこれを迎え撃つが敗北する。
    1865(元治2)松本町大火(山城屋の火事)城下町南部の町屋を焼く。
    第2次長州出兵を命じられ、広島まで出兵する。
    1866(慶応2)木曽から百姓一揆が押し寄せる(木曽騒動)
    1868(明治元)新政府軍に属し北越戦争に出兵する。
    1869(明治2)藩主戸田光則は版籍を奉還して、松本藩知事となる。
    1870(明治3)廃仏毀釈が行われる
    1871(明治4)廃藩置県で松本県になる
    城郭の諸門の破壊が始まる。天守は兵部省が接収する。
    筑摩県が設置され、二の丸御殿が県庁となる。

明治維新

  • 版籍奉還・廃藩置県

    最後の藩主戸田光則最後の藩主戸田光則

    京都に新政権が誕生し、江戸の幕府を征討する軍が中山道を進みだすと、藩論は幕府につくか新政府側につくかで揺れましたが、最終的に新政府軍に加わることを決めました。また、この時期、藩内では兵制から藩政組織まで様々な改革が進められました。

    松本城最後の城主戸田光則は明治2年(1869)に信濃の諸藩の先頭を切って、版籍奉還を申し出ています。これが認められ、藩主は松本藩知事となります。明治3年には廃仏毀釈が藩知事から提案され、全国でも有数の激しさで実施されました。藩知事は見本を示すため戸田家の菩提所である全久院や墓所にあった前山寺を廃し、家臣には仏式を改め神葬祭にすることを命じました。この廃仏毀釈によって城下町や藩領内の寺院は一時衰退に追い込まれました。

    同3年9月には、門札を持たないと通行できなかった城郭内を、自由に通行することを認めました。

    同4年7月に、廃藩置県で松本藩は松本県となり、8月には城主・藩知事であった戸田氏は東京へ移っていきました。そのあとへは10月兵部省から山縣狂介(有朋)が出張してきて、天守内にあった武器を接収するなどの処理をしていきます。

  • 城郭の破壊

    大手門枡形総堀発掘の様子大手門枡形総堀発掘の様子

    城地は二の丸を松本県用地とし、櫓や諸門や塀は壊されていきました。現在松本の郊外に松本城所縁の門を移築したと伝えるものがありますが、由緒が明確になっているものは多くありません。二の丸にあった辰巳隅櫓はその材が三の丸に新築された警察署の材に使われたといいますし、大手門台の石垣は女鳥羽川にかかる千歳橋が石造に造りかえられてそこに使われたというように再利用されたものも多かったことでしょう。

    松本出身の社会運動家木下尚江は、明治9年(1876)生家があった天白町から地蔵清水を通って外堀端を女鳥羽川沿いに新築された開智学校へ通いましたが、その当時のことを後になって『墓場』という小説に記しています。そこには「城門の石垣も、濠の土手の大木も、皆な惜気なく払い下げられた。貉が火を點もしたの、三つ目の大入道が出たのと言ひ伝へられた土手の大木の、斧で殴ぐられる音を聴いたものは、皆な立ち留つて濠越しに眺めやった。木の根の音だとのみは何人にも思ひ諦められなかつたのだ。」との一文があり、どんどんと姿を変えていった城郭の様子が綴られています。

    平成24年に大手門枡形とその東の堀の一部が発掘調査されました。すると、堀跡からおびただしい瓦が出土しました。大手門や枡形の塀の上に載っていた瓦類が、明治初期に建物が壊された時、堀のなかに落とし込まれたものと思われます。

現代まで

  • 松本農事会の試作地

    松本農事会の農事試験場時代松本農事会の農事試験場時代

    明治13年(1880)に安曇郡・筑摩郡の有志50人によって松本農事会が組織されました。この会は、農業試験場にあてる目的で松本城本丸と天守および附属の官庫を借りいれ、果樹蔬菜(野菜)の新種を試験栽培し会員に配布しました。歌人窪田空穂の回想によれば、明治24年から28年頃、本丸庭園の中央に蔬菜畑、西方の天守に接した方がリンゴ畑、北方の土手側に垣造りで三重にブドウ畑が続いていたといいます。天守の月見櫓に畳を敷いて休憩室にし、天守に登る者からは一人5厘を徴収したとも書かれています(『窪田空穂全集 第6巻』)。この試作場は、後に本丸庭園が松本中学校の校庭になるにあたって返還されました。

  • 松本中学校の建築

    松本中学校の開校時の錦絵松本中学校の開校時の錦絵

    明治9年(1876)に開智学校に擬洋風校舎が新築され、この校舎の中に変則中学科が設けられました。その後名称は幾多変わって松本中学校になります。松本中学は明治18年に二の丸の古山地・新御殿跡に新しく校舎を建築し、以後昭和10年に移転するまで二の丸が校地となりました。校舎は増改築されていきますが、大正8年の校舎配置は別図のようでした。

    明治35年には、校庭の拡張の必要から本丸庭園を中学校の校庭として使用するようにしました。

    大正8年の松本中学校校舎配置大正8年の松本中学校校舎配置(出典:長野県松本中学校 長野県松本深志高等学校 九十年史)

  • 公園としての整備

    昭和5年(1930)に松本城が国の史跡に指定されると、これが転機となり翌6年には管理が松本中学校から松本市へ移管されました。そして、中学校を移転して史跡地を公園化する計画が進められました。昭和10年に中学校が蟻ヶ崎に移転しました。市は13年に松本城天守閣広場使用規定を設け、さらに公園とするための設計を依頼もしました。しかししだいに戦時色が強まり、計画は具体化しませんでした。

    公園化が進んだのは太平洋戦争が終結してからです。昭和23年から二の丸を中央公園とし緑化する事業が開始されます。市立博物館の脇には小動物園が設けられたり、二の丸南部には大きな噴水が設置されたり、北西部三の丸には児童遊園が開園したりしました。市立博物館は昭和43年に日本民俗資料館として新築され(現在松本市立博物館)、昭和62年には児童遊園が閉園されるなど変化して現在の姿になってきました。

  • 堀の埋め立て

    明治になると堀の埋め立ても始まりました。最初に埋め立てられたのは総堀の南部と外堀の東部です。明治10年代初めに大手門桝形の東側に四柱神社がおかれるとこの敷地として埋め立てが始まり、次第に範囲を拡大しました。外堀では二の丸に松本裁判所が設置されるとその出入口用に東側の一部分が埋められました。三の丸への入口にあった馬出しの堀も埋められ始め、明治20年代後半には姿を消します。二の丸に設置された松本中学校の校舎増築にともない明治30年代後半には内堀の一部も狭められました。

    大正の中期以降には、住宅地とするため総堀の西側部分や外堀の南・西部分が埋め立てられていきました。

    最後まで残っていた総堀の北側部分は、昭和初期に市営プールが造られるなどして、姿を変えました。大きな堀の埋め立てはこの時期で一段落しています。