袖留橋(緑橋)伝説
本町の5丁目と博労町との間にある長澤川に、緑橋という橋がかかっています。これは明治11(一八七八)年に石橋にかけかえたときにつけられた名前で、その前は袖留橋といいました。
元和元(一六一五)年城主小笠原秀政は先に、2人の子ども忠脩、忠政(後の忠真)はしばらくあとに、大坂での戦いに向かって出発しました。弟の忠政はまだ若年で、鎧兜はつけてはいますが、振袖(たもとが長い)の着物を着ていました。
忠政の乳母(母ともいう)は、「忠政は、まだこんなに若いのに。戦いで死なせたくない。二度と顔を見られないなんて、本当に悲しい。」という気持ちで、いても立ってもいられず、あとを追って城を出ました。そしてちょうど長澤川にかかる橋のところで追いつきました。
乳母は、「どうかいかないでください。」といって、忠政の袖にとりついてはなしません。忠政も乳母への思いがいっぱいになって、しばらくは2人で別れを惜しんでいました。しかし忠政は「私は行かなければなりません。」といって、乳母への思いとともに、乳母がつかんでいる袖をふりきって立ち上がり、戦いへと向かっていきました。残された乳母の手には、忠政の着物の袖が留まっていました。この話から、橋の名前が袖留橋といわれるようになりました。