西コース

二の丸から西堀を下り、町人町を散策してお城の北にある松本神社へ向かうコースです。
城の一番外側の総堀を掘った土を内側に盛り上げて造った「土塁」が残る西堀や、武士が行き来した六九、鷹匠の人たちが住んでいたという鷹匠町を歩きます。

ルートマップ

西コースのポイント

  • 二の丸

    二の丸

    江戸時代には御殿や蔵が立ち並んでいました

    天守がある所が本丸と内堀、その外が二の丸と外堀、さらにその外が三の丸と総堀と、堀によって分けられていました。一番外の総堀から中が松本城の範囲でした。
    本丸には天守と本丸御殿がありました。二の丸は、現在は広場や樹木がある公園になっていますが、江戸時代には二の丸御殿や古山地(こさんじ)御殿(戸田氏の時代には拡張されて新御殿が建つ)、道具を入れた蔵、米を入れた蔵、火薬をしまった蔵などが立ち並んでいました。また、西の方にはお茶室風の建物や庭が造られていて、殿様たちがくつろげる場所もありました。
    二の丸の外側は外堀でかこまれていました。現在東側に外堀の一部が残っていますが、それ以外は埋められて住宅地になっています。今、その堀を元の状態に戻そうという計画が進んでいます。二の丸への玄関口は太鼓門(たいこもん)でした。

  • 徒歩約2分
  • 新井家の腕木門

    新井家の腕木門

    城下町の武士たちが住んでいた町の風景

    新井家がある場所は、三の丸の中です。三の丸には高い身分の武士たちが住む家が建っていました。
    広い敷地の中に住む家が建ち、道に面した所には塀があり、門がついていてそこから中に入りました。それが城下町の武士たちの住んでいた街の風景でした。
    火事や建て替えによって昔の武士の家は三の丸の中には残っていません。ただ1か所この新井家の門が当時の姿を残しています。
    この門は、横が2.95メートルあり、人が出入りする部分は1.4メートル、高さは2.4メートルあります。柱の上に屋根がのっていますが、その屋根を腕のように横に張りだした材が支えています。そこから腕木門(うでぎもん)という名でよばれています。朱色に塗られていた様子も見ることができます。

  • 徒歩約1分
  • 西総堀土塁・六九

    西総堀土塁・六九

    三の丸を囲んでいた土塁

    城の一番外側の総堀を掘った土を内側に盛り上げて高い土の土手を造りました。それを土塁(どるい)といいます。江戸時代には三の丸のまわりを土塁がぐるりと周っていました。
    明治時代になってこの土塁は崩されて、堀を埋めるのに使われたり平にならされたりして、ほとんど無くなってしまいました。
    現在、土塁の跡が残っているところは、西堀と北馬場と大柳町(おおやなぎまち)(総堀の土塁)と片端町(かたはまち)と東町(捨堀の土塁)だけで、それも一部分です。
    この場所は、西にあった総堀の土塁がたまたま残されていて、発掘調査の後整備をしたものです。土塁の底の部分は17メートル、高さは3.5メートル、その上に2.5メートルくらいの塀が立てられていました。
    この土塁の西側は堀、東側は武士の住宅です。発掘した時の様子や、土塁の説明がパネルになっています。

    大手門の外、西側の通りを六九(ろっく)といいます。六九は1633年に松本の殿様になった松平直政が54匹の馬を飼うための馬屋を造ったことから付いた名(6×9=54)だと言われています。その後、戸田氏の時代になると、ここには藩の役所がつくられ、町や村の政治を行う場所になりました。町や村を治める「郡所」、幕府から預かった領地を治める「預所」、藩の会計を引き受ける「表勘定所」や「蔵」があって、そこに勤める武士たちが通ってきました。

  • 徒歩約5分
  • 全久院跡と浄林寺

    全久院跡と浄林寺

    殿様とともに松本に移った寺院

    全久院(ぜんきゅういん)というお寺は、現在は松本市宮村町にありますが、江戸時代には女鳥羽川と伊勢町に挟まれたこの場所にあって殿様である戸田氏の祖先をまつっていました。
    当時、殿様と関係が深いお寺は、殿様が移封する度に、一緒に移っていきました。全久院も戸田氏が松本へ移封になった時、一緒に松本へ移って来ました。この場所には水野氏の時代に水野氏と関係が深い春了寺(しゅんりょうじ)というお寺があり、そこと代わったわけです。
    明治時代になって、松本藩ではお寺を無くす運動を激しく行いました。全久院はその波を大きく被り、建物を残して寺が無くなってしまいました。そこで、その建物を使って学校を開きました。それが開智(かいち)学校です。明治9年に開智学校は新しい校舎に建てかえられました。現在に残る重要文化財開智学校の校舎です。あの校舎は、元はここに建っていました。
    淨林寺(じょうりんじ)は全久院の西にあるお寺で、小笠原貞慶の時代にここへ移り、石川康長が位牌をまつったと伝えますから松本の城下町が出来る頃からのお寺だったのでしょう。浄土宗の中心の寺として勢いがありました。正面にある山門は元禄年間(1688~1704)の建築と伝える四脚門(しきゃくもん)、弘化2年(1845)建築の鐘楼は諏訪の大工、立川和四郎富昌(たてかわわしろうとみまさ)が造り、竜の彫刻は松本の原田倖三郎(はらだこうさぶろう)の作です。

  • 徒歩約1分
  • 伊勢町地蔵堂

    伊勢町地蔵堂

    現在の地蔵堂は分銅町(ふんどうちょう)の公民館の脇にまつられています。
    伊勢町は城下町へ入る西の入り口でしたから、十王堂が置かれていたはずです。元禄年間の絵図をみると元禄5年(1692)に地蔵堂を建てたと書かれていて、江戸時代の前期に地蔵堂に変わった様です。その場所は、伊勢町の西側で、現在まつられている地蔵堂の場所より東方です。
    現在まつられている石の地蔵像には元禄15年の年号が彫られています。

  • 徒歩約2分
  • 亘理神社

    亘理神社

    川の安全を祈念したという説も

    亘理(わたり)神社という名前は珍しい名前ですし、全国でも数が多い神社ではありません。
    神社では、白板(しらいた)村の中に宝永3年(1706)におまつりしたといい、現在の場所に移ったのは安政4年(1857)だと伝えています。最初は白板村に住んでいる折井家がまつっていたといいますが、現在は今町(いままち)1丁目の氏神(うじがみ)様としてまつられています。
    川のすぐ傍に建っていますし、神社の「亘理(わたり)」という名前が「渡り」に通じることから、女鳥羽川が大暴れして人々を苦しめないように、また安全に川を通行出来るように、と願った当時の人々の気持ちが、この神社には込められているのかもしれません。

  • 徒歩約1分
  • 今町

    今町

    城下町の外に作られた新しい町

    ここは、城下町の外になります。松本の城下町の西側は、西堀より西の方へは発展しませんでした。
    享保13年(1728)に、ここより西の方にあった白板村から人々が出てきて住んだことで出来たといいます(昭和8年版『松本市史』)。「今」というのは新しいという意味です。
    現在は、松本駅へつながる大事な道になっています。江戸時代には城下に入らないで蟻ヶ崎(ありがさき)や新橋の方へ行き来をするために道がここを通っていました。
    左の絵図では、伊勢町の木戸の西から女鳥羽川を渡って、六九の木戸の西側で今町(いままち)に通じる道が描かれています。この絵図では女鳥羽川に橋が架かっていません。

  • 徒歩約13分
  • 鷹匠町・北馬場

    鷹匠町・北馬場

    鷹匠たちが暮らした町と馬場

    鷹匠町(たかじょうまち)は、松本城の北西側の総堀の外に水野氏の時代に出来た町だといいます。
    昔、鷹という鳥をつかって獲物を捕まえる狩りのやり方があって、それを鷹狩と呼びました。鷹狩は殿様たちの間で流行しました。
    藩の中には、鷹を飼い馴らして殿様が鷹狩をするときに役に立つように訓練する役目の人がいて、その人を鷹匠とよびました。鷹匠の人たちが住んでいた場所なので鷹匠町という名がつきました。
    鷹匠町の東にあって、北の総堀に沿って真直ぐな通りを北馬場といいます。長さが約289メートルあって、昔ここが馬乗りの練習をする馬場でした。北馬場の通り東側に市の職員駐車場がありますが、駐車場の南の斜面に総堀の土塁の跡がしっかり残っています。

  • 徒歩約1分
  • 西不明門と北不明門

    西不明門と北不明門

    普段は閉ざされていた門

    松本城の三の丸には5つの入り口しかありませんでした。正面が大手門、普通の出入りに使われた門が東門、北に住んでいる武士たちが三の丸内に入るために通行したのが北門、そのほかに西不明門(にしあかずのもん)と北不明門(きたあかずのもの)とがありました。不明門はあかずという名の通り、普段は閉めてあった門です。
    西不明門は、現在の松本税務署の北側にありました。北不明門は、今の松本神社の北西部にありました。北不明門は、水野氏時代に桐の木からとった油を塗ったカッパを積んでおいたところ、自然に発火して火事になったという記録があり、普段は荷物置き場に使われていたようです。西不明門の近くには作事場(さくじば)という作業場があったので、堀の掃除に借り出された農民たちはこの門から出入りをして、堀の掃除と水替えをしたという戸田氏時代の記録があります。

  • 徒歩約1分
  • 松本神社

    松本神社

    5柱の神様と若宮八幡宮をまつる神社

    松本神社は松本城に関係の深い神社です。戸田氏が松本へ来てからここに神社とお寺を造りました。水野氏の時は武士の家があったところです。
    戸田氏の初代藩主康長の子永兼(ながかね)をまつった陽谷霊社(ようこくれいしゃ)がその初めですが、そこに戸田氏の祖先を加えてまつり、合計五柱(いつはしら)の神様をまつったので「五社(ごしゃ)」と呼ばれました。裁判所のある所にはこの神社をまもる弥勒院というお寺もいっしょに造りました。
    このようにしてできた五社は、殿様である戸田家の神社だったので、現在のように皆がお参りする神社ではありませんでした。
    開智駐車場の南の外堀の中に島のようになった場所がありますが、そこには若宮八幡というお城に関係したお社がありました。大正3年(1914)にこの若宮八幡を、五社の境内に移しました。現在社殿にむかって左にあるのが若宮八幡で、右が五社の神殿です。その後昭和28年(1953)に、二つの神社を一緒にして「松本神社」という名に変えました。そして近くの町会の人たちが氏子(うじこ)としておまつりをしています。