天守とその構造

国宝に指定された大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟

  • 松本城 国宝に指定された大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟

    松本城 国宝に指定された大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟

    松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守です。

    これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936)4月20日国宝に指定されました。

    『國寶略說』(昭和11年度 文部省宗敎局)には「・・・當天守ハ大小天守ヲ渡櫓ヲ以テ繋ゲルモノデ、所謂聯立式天守ノ稀有ナル例デアリ、名古屋城天守ノ先驅ヲナスモノデアル。・・・」と記されています。

    そして、戦後昭和25年(1950)に制定された「文化財保護法」により昭和27年3月29日再び天守五棟が国宝に指定されました。

天守の特徴

  • 平城

    松本城は標高590メートルの盆地内平地に位置しています。平地に築かれた平城です。城郭を囲む三重の水堀と土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備えていました。三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていました。

  • 現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守

    松本城 現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守

    大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

    これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

  • 戦国末期の戦いのための天守と平和な時代の優雅な櫓とにより造られている

    戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦い、敵から領国を守ることを念頭にした戦略拠点としての性格が強く、強固な城が造られました。松本城の大天守・渡櫓・乾小天守は、こうした時代の末期に、関東の徳川家康の監視という役割を負って築造されました。

    このように戦いを想定した備えとして、この三棟には、鉄砲狭間(さま)・矢狭間という弓や鉄砲を放つための小さな窓を115か所設置し、一階壁面の一部を外に張り出してその床面を開け蓋をつけた、鉄砲を撃つための石落を11か所設けています。天守の壁は一・二階で約29センチメートルと厚く、また内堀幅を火縄銃の高い命中精度が維持できるぎりぎりの約60メートルとして、鉄砲戦の備えを持っています。

    このように戦うことを想定した備えをもつ大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられ、異なる時代にわたって建築されました。それぞれ結合された天守・櫓が複合しているのが松本城です。戦国期と江戸期という性格の違う時代の天守・櫓が複合された天守群は我が国唯一で、松本城の歴史的な特徴のひとつです。

    松本城 戦国末期の戦いのための天守と平和な時代のしゃれた櫓とにより造られている

    昭和11年に「国宝保存法」により天守五棟が国宝指定されたとき、『國寶略說』には
    「・・・辰巳附櫓月見櫓ヲ加ヘテソノ構成ヲ複雜化シ、殊ニ月見櫓ヲ殿舎風造リトセルハ、姫路城西ノ丸化粧櫓ト共ニ城郭建築中ノ異彩デアル。」
    と記しています。

  • 軟弱地盤上に建築技術を結集した土台支持柱・筏地形

    松本城は、女鳥羽川(めとばがわ)や薄川(すすきがわ)により形成された扇状地上の端にあたる所に築造されています。天守の建てられた地盤は、扇状地の扇端の柔らかな所です。その上に1,000トンの重量がある大天守を築造するために、次のような先人の知恵が隠されています。

    1. 16本の土台支持柱

      天守台石垣内部に、直径約39センチメートル、長さ5メートルほどの栂の木の丸太が埋め込まれ、土台に接続されて天守の重さを受け止め、その重みを均等に地面に伝える役割を果たしていました。この丸太杭は、天守の東西南北の各面に4本、中央に東西2本ずつ二列に、合わせて16本が碁盤の目状に配列されていました。各杭それぞれの中央部にほぞ穴を彫り、杭同士を材でつなぎ止め、16本がひとつの構造体として天守台内部に、基礎となる石の上にのった状態であったと考えられています。杭の長さは地盤まで達していますが、石垣築造後に打ち込んだものではなく、石垣築造時にまず杭を配列し、石垣を積み重ねていく過程において、裏込石・土等により石垣内に埋め込まれたものと推定されます。

      松本城 16本の土台支持柱松本城 16本の土台支持柱
    2. 筏地形と土留めの杭
      松本城 筏地形と土留めの杭昭和の修理時の写真
      堀底に、石垣面に対して直角に栂の丸太(径約12センチメートル、長さ約3メートル)が約50センチメートル間隔で筏のように並べられ、一番外側の石が積まれる下には、石垣に平行して横に丸太が並べられ、その前に横にならべた丸太止め杭が打ち込まれていました。石垣が沈まないようにするための筏地形(いかだじぎょう)という先人の知恵です。
      さらには、石垣前面の5メートルほどの所に土留めの杭が打ち込まれ、1,000トンの重さによって地面や石垣がずれないように工夫されていました。

石垣~野面積みと算木積み~

  • 野面積み

    松本城 野面積み・算木積み

    天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

    天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。傾斜も緩いです。
    ※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

  • 算木積み

    天守台四隅は算木積(さんぎづみ)となっています。長短・長短となるように石を積み上げ、角を整えています。しかし、不完全な形で後の時代の算木にみられるような規則正しい石の積み方にはなっていません。

滴水瓦と捨て瓦

  • 滴水瓦(てきすいがわら)

    松本城 滴水瓦

    滴水瓦とは、瓦の軒に面する部分が逆三角形をしていて雨水がしたたり落ちやすい形に作られた瓦です。秀吉の朝鮮出兵に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになり、関ヶ原合戦以降大名の配置転換により全国に広まったといわれています。(一般的には雨落瓦といわれています)

  • 捨て瓦(すてかわら)

    松本城 捨て瓦

    屋根の上に平瓦が敷かれているところが幾ヶ所かあります。この瓦は「捨て瓦」といいます。上の階の屋根から雪が凍ってすべり落ち平瓦や丸瓦をいためる可能性があるので、昭和の大修理の際に保護のために置かれました。